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平和な社会の実現のために(その10大きな変革期を迎えて まとめの②)

 投稿者:yositune  投稿日:2009年11月16日(月)16時19分58秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 10 大きな変革期を迎えて まとめの②)(09・11・16)
 戦前という時代を振り返ったとき、日本の国の人々も他国の人々も含めて「人間を大事にしない時代」であったことを見てきました。そしてそのことは、明治維新でヨーロッパ的帝国主義国への道を選択した時点で、すでにその可能性を内包していたことも見てきました。つまり戦前という時代は、平和や民主主義を求め、人間を大事にすることを希求する人たちにとっては、ほぼ一貫して生きにくい時代でした。したがって、戦後になってそれまでの国の枠組みが崩壊して、「恒久平和主義」「国民主権」「基本的人権」といった人間尊重を第一義とする新しい枠組みが作り出されたことは大変大きな意味がありました。
 ところが、希望に満ちた世の中になるはずの戦後は、予想外の新しい事態が急激に形成されていきました。「東西対立」です。そして、世界のほとんどの国や、その国の中にある諸勢力が、この新しい枠組みに巻き込まれていきました。
 日本の場合は、労働組合や学生組織のほとんどは「東側支持」の立場を選択しました。労働組合の場合を見れば、まず労働者の生活は厳しい状況にありました。軍需産業は崩壊し、生産手段は爆撃によって破壊されていました。インフレの中で賃金の遅配欠配が続出しました。労働条件は劣悪でした。首切りも横行しました。このような状況で労働者は争議に立ち上がらざるを得ず、労働者と使用者の対立は激しくなっていきました。労働者は搾取の無い世界、働く者が主人公である社会として社会主義社会を希求し、「東側」が「西側」を圧倒していくことを期待しました。
 学生組織も「東側支持」になりました。学生たちにとっては、敗戦によってすべてが破壊された中で、新しい価値基準が必要でした。また、自分たちがこれから参入しようとする社会に夢や目標を求めました。それがマルクス主義・社会主義社会でした。なぜなら、戦前、反帝国主義・反権力として最も厳しく闘ったのが、マルクス主義者たちでした。また、マルクス主義の理論こそ、歴史の発展方向つまり「あるべき未来」を明確に示していると考えました。
 私自身、社会主義を理想とするようになって以来、学園の民主化に参加したり、安保のデモに加わったり、組合の青年部活動を担ったりしながら、ささやかながら歴史の進歩と大きな連帯に参加している喜びを味わうことができました。
 ソ連邦がさまざまな芸術分野で豊かな成果を挙げ、医学や科学分野でも西側が驚くような発展を示しました。スプートニクが打ち上げられた時は、毛沢東は「東風か西風を圧倒し始めた」と述べました。
 しかし、その頃から「スターリン主義」と呼ばれる独裁の弊害や、コルホーズ失敗や、東ヨーロッパの自立への弾圧や、中ソ対立などさまざまなマイナス現象が聞こえてくるようになりました。そして今からちょうど20年前に、ベルリンの壁の崩壊と「冷戦終結宣言」を迎え、すぐ後にソ連は崩壊しました。
 現在という時代は、この「東西対立」後の20年の間に出てきたさまざまな現象によって、「文明の曲がり角」とも呼ばれるような、人間の暮らしのありようを大きく変えることが迫られている時代だと言えると思います。「東西対立」後の大きな特徴のひとつは「グローバル化」です。それまでの「東側」諸国はほとんどすべてが、資本主義国の一員となり、大量生産大量消費をめざすようになったために、生産と流通が世界レベルで拡大しました。また、以前の資本主義国は、労働者などを「東側」に向かわせないために、修正資本主義として社会主義の成果も一定程度取り入れましたが、社会主義国が崩壊してその心配がなくなってからは、むき出しの資本主義として、自由競争による純粋な資本の論理を貫徹するようになりました。
 そうしたことからさまざまな問題状況があからさまに姿を現すようになりました。まず世界的に格差の拡大が進み、またそれを背景としたテロや海賊などが跋扈するようになりました。地球環境の悪化や資源の枯渇と争奪競争も急激に進みました。人口爆発がこうした問題に拍車をかけ、しかも止まるところを知らない状態です。その上に単なる生産過剰が原因でない、やっかいな世界同時不況が襲っています。
 このような状況にあって、本屋では「資本主義の終焉」とか「忍び寄る破局」とか「人類を救う哲学」といったタイトルの本が多く並ぶようになってきました。つまり多くの人々が「今の世の中のあり方を続けることは不可能になってきている」と考え始めているのです。噴出するさまざまな問題は、もはや科学技術の進歩等のテクニックでは解決は不可能で、「大量生産・大量消費の文明」そのものを変えていく必要があるといわれています。私もそのように考えます。
 さて「大量生産・大量消費の文明」を変えていくとは、世の中の仕組みや暮らしのあり方や人々の価値観などを総合的に変えていくことだろうと思います。そんなとてつもないことが迫られているわけです。「そんな巨大な問題を、われわれ普通の庶民が考えてもしようがない」のでしょうか。いいえ私は、このような大変革期こそ、既成の専門家やリーダーでない普通の我々の出番だと考えています。これまでにも述べてきたように、表面的な個々の現象でなく歴史の深く大きな変革は、庶民たちこそ準備してきたのだと考えています。
 そしてまたこのような巨大な話は、明日の仕事の段取りを考えるような、こせこせした受身の発想ではどうにもならないように思います。むしろ楽しんでゆったりと、みんなで積極発想の討論を積み重ねることが大事ではないでしょうか。よく言われるように、目を怒らせて「憲法九条を守れ」と叫ぶ運動よりも、「憲法九条の精神を世界中の精神にしていこう」というような方向で考えるほうが時代に合っているのではないでしょうか。今は「世界」とか「歴史」といった大きなレベルで考えることが必要な時代ではないかと思います。
 さらに我々年寄りは「あるべき時代」が来なくても特に困るわけではありません。どうせ遠くない死が待っているわけですから。それだけに、楽しんでこの大問題に向かい合う余裕を持つことができます。さらに年寄りの有利な点は、大量生産大量消費でなくても、また便利さや楽さやカッコ良さがなくても、誇りや充実感を持って生きていくことができることを、体験的に知っています。さらに社会の未来に夢や希望を持つことのすばらしさや、それを多くの人たちと共有する嬉しさを体験的に知っています。だからそれほど心配する必要はないのだと、若者たちに伝えることができます。そして、これまでの物質的欲望を優先した時代は人々を分断する働きを持っていたが、これからは夢や希望や連帯のある社会を作り出していこうと呼びかけることができます。
 このような利点を生かしながら、まず我々年寄りたちが意見や体験を交流することから始めて、いずれはその中に若者たちが参加してくれるようになればなどと夢見ているのです。要するに、絶望的な困難を目前にしている現代という時代は、同時に新しい夢・新しい希望・そしてそれを実現していくための新しい連帯を作り出していくべき時代だとも思えるのです。そのためには、例えば農村のことをよく知っている中川聰七郎さんから、「過疎地に取り残された年寄りの暮らしぶりは、単なる悲劇ではなく、そこには『未来』が学ぶべき大事な生き方がある」というような話を聞かせてもらうといったようなとりくみが、あちらこちらで始まれば、そこから、未来に向かった対話があちらこちらで始まるかもしれないなどと、ふと思ったりしているのです。
 以上、前回の予告どおり、これにて私の変な連載は終了させていただきます。読み返してみると、対話を期待して筋書きなど考えずに書き始めたために、まとまりのない文章になってしまっています。お許しください。
以上
 
 

平和な社会の実現のために(その9 相克の関係は続いている まとめ②)

 投稿者:yositune  投稿日:2009年11月13日(金)23時03分47秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 9 相克の関係は続いている まとめの①)
これまでに見てきた戦前の歴史は、われわれも経験したあの戦争と敗戦をもたらすまでの道程と見ることもできると思います。言い換えれば、それは平和と民主主義を希求する勢力が国家権力とそれを支持する人々によって踏み潰されていった道程であり、同時に踏み潰した側も敗北していった歴史であります。
その道程のスタートについて考えてみるとき、明治維新の富国強兵策、つまりヨーロッパ列強の一員として参加していくという方向での近代化政策にあります。この政策をどのように評価すればよいのか、その背景に列強から侵略される恐怖があったことを考えれば、難しいことです。歴史の事実をありのままに見ておくよりしようがないように思います。ただ残念なことは、列強の一員として参加するという選択は、必然的に帝国主義国同士の争いに参加することになり、他国を侵略し続ける道を歩むことになったわけです。
「軍部の独走を許すべきではなかった」といわれます。「天皇絶対主義は間違っていた」といわれます。「治安維持法はひどすぎる」といわれます。私もたしかにその通りだと思います。けれど、このような問題点を修正することができたとしても、本当の解決にはならなかったのではないでしょうか。「帝国主義国として歩む」という基本姿勢を変更しないかぎり、やはり本質的には同じような不幸な結末を迎えることになったのではないでしょうか。
では、この必然とも見える歴史の流れに抵抗して、平和や民主主義のために闘った人たちの努力は、無意味で空しい努力だったのでしょうか。たしかにこの人たちの努力は、その時点ではほとんど実を結んでいません。けれども、こうした努力の膨大な積み重ねが、次の歴史を生み出していったのではないでしょうか。
世界の歴史を見た場合、君主国の崩壊と共和国の成立、革命の成功、植民地の独立、国連の創設など、社会の大きな変化の前段階には、膨大な犠牲の歴史があったことが知られています。
日本の場合、戦後60年以上の長きに亘って戦争をしていません。いろいろと問題はあるにしても、戦後の平和と民主主義を守り育ててきたのは、戦前・戦中のさまざまな体験から学んだ人たちの努力によると思います。戦前に平和と民主主義のために闘った人たちのおかげで、膨大な「普通の人たち」が、社会に何が必要なのかを見る目を育てることが出来たという面に、私はもっと注目すべきだと考えています。
さて、幸いにも戦後の私たちは「帝国主義」という大きな枠組みから解放されて「恒久平和主義」「主権在民」「基本的人権の尊重」という宝物を手に入れました。戦前に平和と民主主義のために命がけで闘った人から見れば、それこそ命がけで守ることが当然の宝物でしょう。けれどこの宝物を宝物と認めず、我々から奪い取ろうとする勢力が、現在も一定の力を持っていることに注目しておくべきであると思います。
 例えば、「諸君!」「正論」といった雑誌に原稿を寄せている藤岡信勝や中西輝政は、あの治安維持法について「ソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」として「全面的に評価」しているそうです。(インターネット百科事典Wikipediaの「治安維持法」による)
 また、ほんの二・三年前のこと、憲法の改悪をめざして改憲手続きとしての国民投票法を通過させ、教育基本法を改悪した安部という男が、総理大臣として右翼の期待を集めていたという事実を忘れてはならないと思います。あの頃、私は教育基本法改悪に反対する大阪での集会とデモや東京での大きな集会とデモに参加しました。座り込みやハンストをしている人もいました。でも、マスコミは無視し続けたので悔しい思いをしました。憲法や教育基本法が改悪される動きがあれば、昔なら大騒ぎになったはずです。ところが大騒ぎにならないだけでなく、抗議行動が無視されるという状況に、国全体として右傾化していくのではないかという不安を感じていました。そんなこともあったから、自民党が凋落したことを本当に嬉しく思うのです。
 右傾化の問題は、評論化や政治家だけに見られる問題ではありません。インターネットのブログの「平和」や「人権」に関係する言葉を呼び出してみると、超右翼や反人権のひどい文章が意外なほど多く横行していることに驚きます。これは思想の問題ではなく、世の中の生きにくさによる欲求不満の広がりを示しているのかもしれませんが、人々に不満が高まると右翼思想やナショナリズムが元気になるという現象として、注目しておく必要があるのではないでしょうか。このように気がかりな現象がいろいろとあるにもかかわらず、多くの若い人は「恒久平和主義」「主権在民」「基本的人権尊重」などについて、「あるのが当たり前」と思っているのではないでしょうか。でも、本当はあるのが当たり前ではなく、守る努力が無ければ失ってしまうのです。「平和」や「民主主義」に関する問題は、戦前から常に争いの対象だったのです。
 私たち年寄りは「平和」や「民主主義」や「人権」が宝物であることが理解できます。だからそうしたことを若い人たちに伝えていかなければならないわけです。私は本当に細々とではありますが、けっこう長年そのような努力を続けてきたつもりです。
実はこのブログに意見を寄せ始めたのも、まず年寄り仲間と思いを共有し、その輪を広げ若者にも届けたいと思ったからです。続けていれば何人かが参加してくれるようになって、対話の輪が広がってくるのではと期待したからです。しかし、中川聡七郎さんだけが私を孤立させないように文章を載せ続けてくれましたが、輪は広がりませんでした。(その理由は、たぶんこのブログがホームページの奥に作られていて一般の人の目に届きにくいからだと思います。)そんなことから、次回に「まとめの ②」を書かせていただいて私の文章は終了させていただきます。私の「発信と対話」の欲求は無くなっていませんので、何か新たなテーマ、切り口、手段を探してみたいと考えています。
 

現代平和研究会の開催(再通知)

 投稿者:中川 聰七郎メール  投稿日:2009年11月 8日(日)16時28分39秒
返信・引用
  お忘れなのか、ご欠席なのか、ご連絡がない方が多いので、ここに再掲します。(ホームページ本体に書くことができないので)
現代平和ニュース2009.9.29号
ご無沙汰しております。お元気でお過ごしのこととお慶び申し上げます。選挙が終わり、秋がやって来ました。政権交代の意義が問われる時期が始まりました。
◎ 現代平和研究会の開催;早速ですが、2年半ぶりに、現代平和研究会を開きたいと思います。テキストは、先日お送りした「叫び」(復刻版)です。この冊子の読後感や、感想・印象、抱負などを披瀝しつつ、お互いの近況などを出し、語り合いたいと思います。
・日程;2009年11月21日(土)pm: 2.00~5.00
・場所;遊子庵(yu-shi-an)(京都市中京区室町御池上る御池之町305。℡/fax;075-950-1639)会費;無料。なお、終了後、近くのレストランで懇親会(実費3000円程度)を開きます。ご参加の方は、ハガキ・℡/fax・メールなどにて、出欠をお知らせ願います(中川宛)。
◎ ブログの開設;先日、お知らせしましたが、この度インターネット上に現代平和ニュースのホームページ及びブログを開きました。ホームページのアドレスは「http://www11.ocn.ne.jp/~so7ro/index.html」です。
ご投稿をお待ちしています。連絡先:〒604-0944京都市中京区
押小路通富小路東入る橘町626 中川聰七郎
℡&fax;;075-212-4565  Mail:sou7rou@siren.ocn.ne.jp
 

平和な社会の実現のために(その8 治安維持法等の猛烈な弾圧)

 投稿者:yositune  投稿日:2009年11月 8日(日)16時13分29秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 8 治安維持法等の猛烈な弾圧)
 明治以降の歴史を見るとき、時の政府や天皇至上主義者から見て危険人物となる人へのテロや虐殺が目立ちます。
板垣退助~自由民権運動の指導者。明治15年(1882年)遊説中に暴漢に襲われて負傷。このときの「板垣死すとも自由は死せず」は有名。
幸徳秋水等~明治43年(1910年)「大逆事件」といわれる、天皇への襲撃を企てたとして幸徳秋水ら12人を死刑、12人を無期懲役、現在ではデッチアゲ事件として知られている。
大杉栄や伊藤野枝等8人~大正12年(1923)関東大震災のどさくさの中で検挙虐殺。
山本宣治~昭和3年(1928)右翼が刺殺
小林多喜二~昭和8年(1933)検挙拷問虐殺
こうした歴史の中でも治安維持法は大きな役割を果たします。この法律は1925年(大正14年)に成立します。1917年(大正6年)にロシア十月革命があり、その影響が世界に広まっていきます。政府は共産主義が広まることを非常に恐れます。法律が制定されたのは日本共産党創立(大正11年)の3年後にあたります。「国体の変革」と「私有財産制度の否認」を目的とした言動や組織の取り締まりを謳います。のちに無期または死刑が原則となります。検挙者は共産党員およびその支持者とみなされた者が7万人あまり、自由主義者とキリスト教者が2千人。取調べ中の拷問等による虐殺は194人。獄中の病死者は1503人と言われています(主として日本共産党資料)。朝鮮半島の民族独立運動の弾圧にも用いられて、2万3千人以上が検挙されたといわれています。
この法律は運用もひどいものでした。予防拘禁(可能性があると見ただけで逮捕)、弁護活動への弾圧、大本教等宗教活動への弾圧等何でもありです。つまり「一旦にらまれたら何をされるかわからない」という恐怖を与えることで大きな効果を持ったのではないでしょうか。
幸徳秋水等が「大逆事件」をたくらんだと決め付けられたことに対しては、当時すでに疑問を持った人は多かったようです。特に彼らと身近に付き合っていた人たちは、強い疑いを持ったようです。「3.1独立運動」を知って、日本の植民地政策は間違っていると思うようになった人も多いといいます。「満州事変」でも軍の説明に釈然としないものを感じて、先行きに不安を持った人が多かったようです。それでもたいていの人は黙っていたのです。(一部の労働者や学生は声を上げました。でもすぐに弾圧でつぶされていきました。)
このように言動として表現はしないが、政府の方針や右翼的潮流に批判的だった人の思いが社会的に表現されたのが第1回の普通選挙(1928、昭和3年。選挙権が25歳以上の男子に拡大された)で、京都の山本宣治と水谷長三郎という左翼活動家が当選したことです。非合法だった共産党に依頼されて労農党から立候補したものです。演説会には大勢の警官が乗り込んで演説を妨害し、これを抗議する人を公務執行妨害で逮捕するなど「命がけの選挙」といわれるものだったようです。直後に地下の共産党員の根こそぎ検挙投獄、労農党の解散命令があり、水谷は変節し、山本は右翼に殺されます。
最も弾圧の厳しい時期に、これと真正面から立ち向かった山本宣治のような人がいたことに感動します。同時に彼を国会議員に選出した多くの人がいたことも注目されます。彼の最後の演説の言葉は有名です。「山宣ひとり孤塁を守る。だが、私は寂しくない。背後には多数の民衆がいる。」
軍人たちによるテロ事件は次の2事件が有名です。
「5.15事件」~昭和7年(1932)陸海軍の青年将校たちが「天皇中心の国家改造」をめざして政友会本部等各地を襲撃。犬養首相等3名を射殺
「2.26事件」~昭和11年(1936)青年将校ら1.600人が高橋是清ら数人の重臣らを殺害
このように戦前の歴史は、道理や理性や人間尊重の精神に敵対する弾圧とテロなどの血塗られた事件がどんどんと強化されていく歴史でした。
戦後1947(昭和22年)「二・一スト」のオルグで走り回ったという労働者から、「検挙されても拷問されなくなった、と思うだけで気持ちが楽になっていた」とずっと後になって聞いたことがあります。理不尽な弾圧や暴力は本当に怖かったのだろうと思いました。
ところで、戦後の早くから労働運動や民主化運動に入っていった人はどんな人なのでしょうか。私はあの山本宣治を議会に送り出した人のように、言動には表現しなくても、心の中に「平和」や「人間尊重」を希求していた人がけっこう多くいて、そのような人たちが開放感の中で動き出したのではないかと想像しているのです。一般的に「それまで軍国主義だった人が、戦後ころっと民主主義者に変わった」などと揶揄的に言われていますが、私はそうではない人のほうが多くいたと思っています。その理由の一つは、学校の教師など私の身の周りには古い頭のままの人がいっぱいいたからです。もう一つは「敗戦を解放と感じてほっとした」ともらす人も多くいたことを知っているからです。私の身近にも興味深い人がいたのです。私の母は「或るリベラリストの生涯」という題で、自分の父(私の祖父)のことを数十ページの文章に書き残しています。私の母の家系は親戚を含めて渡来人秦氏系の京都の三つの神社の宮司の家系で、同時に宮内庁に勤める人が多かった家系です。つまり右翼の典型のような家系です。そして母の父自身も宮内庁の「猿江御料地」という東京にある広大な貯木場の責任者だったのです。その彼が相当なリベラリストだったというのが母の記録です。読んでいた本の傾向や、子どもに語りかける話の内容がそうだったといいます。関東大震災のとき、大火事で逃げ惑う人たちを、民間人立ち入り禁止の「猿江御料地」に入れて責任を問われたことから辞表を出して辞めたいきさつや、自分の娘(私の母)が治安維持法で逮捕されるような男(私の父)と結婚するのを許したときの態度などを高く評価したようです。私は「立ち位置」だけで人間を決め付けてはいけないと思いました。表面に見せているものとは違った思いをもった人や、すぐれた可能性を秘めた人がきっと多くいるのです。このような人を切り捨ててしまわないようにすることが大事だろうと思っています。
 

平和な社会の実現のために(その7 天皇中心主義の明治憲法が支配していた

 投稿者:yositune  投稿日:2009年11月 1日(日)17時20分23秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 7 天皇中心主義の明治憲法が支配していた)
 たしか今年の春から夏にかけてのこと、NHKテレビで「シリーズ Japan デビュー」というのをやっていました。「150年前、横浜港の開港からの開国で、日本は世界にデビューした」というナレーションから始まります。つまり、開国以来の日本と世界の関係を描いて現在と未来を考えようという番組です。その第2回は「天皇と憲法」でした。明治憲法がどのように作られたかから始めて、戦後に新しい憲法が作られるまでを述べています。
 内容の骨子は、たぶん次のようだったと思います。
1) 明治憲法も現在の憲法も、第一条は「天皇条項」になっている。この連続性は注目すべきである。
2) 明治憲法の第一条は「大日本帝国ハ 万世一系の天皇コレヲ統治ス」である。明治憲法の内容を練り上げた中心人物は、時の総理大臣の伊藤博文であるが、彼は天皇をいわば道具と考えていたが、その彼が自分の思い通りに政治を動かしていくために、この条項を作りこのように表現した。
3) 第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ 統治権ヲ総攬シ コノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行ナフ」となっている。これは第一条の天皇の統治権を憲法の枠内に縛る意味を持っている。「コノ憲法ノ条規ニ依リ」と憲法の枠内であるとする制限を設けているからだ。この条項は第一条と矛盾するとして反対する意見も強かったが、伊藤博文は「立憲君主制のヨーロッパ列強と肩を並べるためには、憲法を作らなければならない。そしてこの四条を抜けば、憲法がないのと同じになってしまう」と説得した。
4) 時代が進み、日清・日露の戦勝があり、朝鮮や大陸に日本の権益が生まれる。そのために軍隊が大きな力を持つようになる。軍隊は憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥スル」を盾にとって、つまり軍事は天皇の専権事項であるとして、政府や議会の干渉を拒否する。さらに在郷軍人会などを動かして、憲法第四条を踏まえた美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃し、第一条こそ国の根幹とする天皇絶対主義の世論を形成していく。
5) さらに大不況の中での生活苦によって、政府批判、議会批判が高まり、「政府や議会に政治をまかせず、天皇絶対主義の社会で世直しを」という右翼の主張が力を持つ。彼らはテロや反乱を起こし、治安維持法などの恐怖政治とあいまってブレーキが利かなくなり、戦争へ突き進み悲惨な敗戦への道をひた走ることになる。
6) 以上のように憲法の「天皇条項」は、その時に力を持った人たちによって強引に利用されてきた。現在の憲法でも第一条として「天皇条項」が残されているので、変に利用される余地を残さないように、天皇の権限や位置づけについてきちんと議論しておく必要がある。
以上がこの番組の(私の解釈を含めた)内容紹介です。私はこの番組を見て「勇気ある人たちによって作られた良い番組だ」という印象を持ちました。後日、案の定「右翼からの抗議が殺到した」という噂を聞きました。
 たしかに番組が言うように、天皇をめぐる問題は歴史から学ぶべき課題をなお残している問題であり、未来を考えるためには(天皇が必要かどうかを含めて)議論しておくべき課題だと思います。
 例えば「天皇の絶対視が、戦争へ突き進む道を開いた」ということについて「それは過去のことであり、今は象徴天皇だから心配はない」として済ましてしまわないで、「個人崇拝が国民の主権者意識や人権意識を育てない」とか「侵略を生むナショナリズムと天皇制」といった問題として歴史を学びなおしておいた方がよいと思います。なぜなら現在と未来について考えることにつながるからです。
明治憲法が果たした役割を振り返るとき、現在の憲法のどこが特に大切なのかが分かるような気がします。このような考察が歴史を学ぶ意義だろうと思います。この問題はまた後日に触れることとして、最後に私の個人的な体験を報告しておきます。
私は1970年、つまりプレタリア文化大革命の最中で毛沢東が存命だった頃、大阪総評の訪中団の一員として21日間中国各地を訪問しました。プロ文革には学ぶべき点が多いとも感じました。例えば、故宮博物館に展示された皇帝の豪華な持ち物の解説には、それが厳しい搾取の結果であることが書かれていました。「この絹の布団の値は農民の500日の労働に匹敵する。彼は毎晩のように布団と女性を換えた」「人間の物質的欲望には限りがない」「皇帝はこのような贅沢な暮らしをしても幸福ではなかった。例えば~」「個人の欲望を土台とした資本主義は人間を幸せにしない。人民に奉仕することを土台とする毛沢東思想こそ~」といった具合です。けれども私は毛沢東への個人崇拝には強い疑念を感じました。例えば庶民の身近な日常生活に見られる教育や文化の活動も、毛沢東個人を称える言葉に満ちていました。私は教師なので「こんな教育をしていたら、自分の頭で考える子どもは育たない。人民が主人公の国にならないのでは」と親しくなった毛沢東思想宣伝隊の劉福華さんに言いました。彼は「一番大事なことを小さな時に身に付けさせるのが教育だ」と譲りませんでした。
 以前私は朝鮮総連の人たちや自主学校の教師たちと親しく付き合っていました。「主体思想」についての研究会にも通っていました。ところが、金日成が息子の金正日に跡を継がせるという動きが出てきたとき、特に親しかった一人と飲み屋で大喧嘩をしました。「あなたたちは天皇崇拝の日本にひどい目に合わされたではないですか。」彼は「金正日は極めて優秀な人材であるだけでなく、人民の信頼が厚いので、彼以外は考えられない」という意味のことを繰り返しました。
 

平和な社会の実現のために(その6 前回の中間のまとめ)

 投稿者:yositune  投稿日:2009年10月26日(月)19時42分26秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 6 前回の中間的まとめ)
前回の予告では、今回採り上げるのは「天皇主権の明治憲法」や「治安維持法等の猛烈な弾圧」の問題についてでしたが、その前に前回に報告した「1、ヨーロッパ列強の植民地主義を強く意識せざるを得ない客観情勢にあった」について中間的なまとめをしておいた方がよいと考えました。前回報告した歴史の経過の中で、まずいくつかの注目すべき点を挙げておきたいと思うのです。この準備作業の後で「こうした歴史的事実から何を学ぶべきか」について論じるほうが整理をつけやすいと考えたのです。
私は「注目すべき点」として以下の事実を挙げたいと思います。
1) どうすればヨーロッパ列強の植民地主義の被害を受けないようにできるかという課題が、重い課題としてずっと存在し続けたという事実は、無視できない事実としてまず注目すべきでしょう。特にロシアの侵略の危機感は、黒船が来るずっと以前からあった問題で、北前船の船頭高田屋嘉兵衛の活躍などで知られているように、北方での小競り合いが続いていました。そこへアメリカや西ヨーロッパ諸国が軍事力を背景にして不平等条約を伴う開国を迫ってきたわけです。それに対して日本は、明治維新で「帝国主義国の一員となって対抗する」という道を選びました。そしてその後は「帝国主義的植民地主義」をひた走るわけです。「戦争は悪い。しないほうが良い」その通りです。「日本が他国を攻めたり、植民地にしたりしたのは悪い」その通りです。では「悪いこと」をしなかったらよかったのでしょうか。もし「悪いこと」をしなければどうなっていたのでしょうか。または、どうすべきだったのでしょうか。結論を出すのは簡単ではありません。時代の制約を逃れるのはけっこう難しい問題ではないでしょうか。
2) 例えば日清戦争は「日本と清国の戦争」だっただけでなく、朝鮮をめぐる日本とロシアの勢力争いという背景もあったといわれています。そしてロシアに対抗するイギリスは日本を支援したといわれています。そして日本の勝利に伴う遼東半島の割譲に対して、中国への進出をもくろむロシア、フランス、ドイツが「三国干渉」をしてきます。また日露戦争は中国東北部に勢力を伸ばし、朝鮮を狙うロシアとこれに対抗する日本の戦争ですが、日本側にはイギリス、アメリカ、トルコが支援し、ロシア側にはフランスやドイツが支援しました。このように帝国主義戦争は当事者国だけでなく、いくつもの国の利害や思惑が複雑に絡んでいたのです。つまり広い世界からすると局地的に見える戦争でも、実態は国際的な戦争だったのです。
3) 各国の社会主義政党が結集した第二インターナショナルは、反戦平和の決議や呼びかけなどを何度も行いますが、第一次世界大戦が始まると、各国の社会主義政党は自国の戦争の方針を支持して決議を反故にします。戦争が目の前に来てしまえば、残された選択肢は「殺すか殺されるか」しかありません。こんなときは「殺される」より「殺す」を選ぶのは自然なように思います。だから戦争を避けるために大事なことは、戦争が目前に迫るより前の平和な時代に何をするかということだと思います。
4) 第一次世界大戦の膨大な惨禍は、ヨーロッパで組織的な反戦運動をいくつも生み出しました。ロシア革命による社会主義国家もできました。それによって、日本でもまた他の諸国でもこの影響を受けて平和と民主主義を求める動きが高まりました。国際連盟も作られました。にもかかわらず第二次世界大戦の悲劇は回避できませんでした。歴史は拡大して繰り返されてしまったのです。
5) 第二次世界大戦後を生きている我々は、これまでの歴史になかった特別な時代を生きているといえるように思います。人間はずっと昔から戦争を繰り返してきました。同時に平和を求め戦争を避ける努力も続けてきたはずです。ところが戦争を止める確かなブレーキが見つからないまま、とうとうその極限にまできてしまったのです。つまり再度の世界大戦が起これば、それは世界の破滅を意味するところまできてしまったのです。例えば核弾頭の世界の保有量は、全世界の人類を3回だとか7回だとか全滅させる量だといわれています。プルトニュームを毒ガスのようにばら撒いても、同様の結果になるようです。もしもナショナリズムが戦争の原因で、しかもナショナリズムは国家の本能のようなもので、どうにもならないものだから戦争が続いてきたのだとしたら、そのどうにもならないものをコントロールしなければならない役目を私たちは負っているのです。もちろん全世界レベルのコントロールが必要です。
6) さらにこうした課題は、「反戦平和」の課題だけではありません。「環境の問題」「資源の問題」「人口の問題」そして最近では「経済の問題」も加わって、これまでの在り方を大転換しないとどうにもならなくなることが分かってきたのです。
以上のことを「中間のまとめ」としたいとおもいます。そして次回は元に戻って「天皇主権の明治憲法」について、その次には「治安維持法等の猛烈な弾圧」の問題について採り上げてみたいと思います。
 

日本人の「決断」と「行動」に関する印象

 投稿者:中川 聰七郎メール  投稿日:2009年10月21日(水)15時41分26秒
返信・引用
  ヨシツネさんからの投稿、まことに、問題に対する正面からの取組であり、敬意を表する次第です。論戦に参入したいのですが、一寸、精神的、時間的ゆとりがありませんので、当面、失礼します。最近、少し考えていることを二点ほど、書いてみたいと思います。

1. なぜ、日本は戦争に踏み切ったか
 いつも気になっている点です。ドイツにゲーテ、ベートーベン、ハイデガー、マルクス、ヒットラー、ハーバーマスなど論理に骨格のある論客や扇動家が生まれ、世界の思想史の中にその名が刻まれてきた。一方、わが国では、世界にそれらに匹敵する論客や有名人はい起こしても見あたらない。
最近、太平洋戦争の開戦にいたる経過に関する書物、敗戦の原因を追及する書物などを読みながら考えるに、気象現象の繊細微妙な、その中でなお微細にわたる国土のなかで、季節が緩やかにかわる、食べ物も、何時も何かが成育・収穫できるという自然環境・条件なかで、時代を劃する「決断」をしない歴史を、我々は作ってきたのではないか。もちろん、決断が必要な時期があり、決断もされたのであるが、それは、明快に「誰が」決断したかという痕跡が残らない決断であったのではないか。今次大戦の8月15日の天皇の放送は偉大な決断であったが、しかし、放送に至らしめた経過は解説されるものの、本当に誰が、どのような場で、どういう形でそれが決断されたか、私は知らない。
開戦の決断も、誰が、どのような場で、どういう形で決断されたか不明である。このような論旨を展開するためには、さらに説明するに足るデータを必要とするが、結論としていえる(と私が考える)ことは、「状況としては、「必要である」と決断すべき処にきたとしても、だれも「結論」は出さず」に終わる、というかたちになるのが実態ではなかったか。その後は自然体に放置すれば、事態は自動的に「結論」に至る、としてしまうのである。そういう意味で、ヒットラーやスターリンのような決断を表現する独裁者、独裁的指導者はいなかったのではないか。
例えば、私の務めた役所を例にとるといささか問題が残るが、局議や省議である問題が議論されても、あるいは、席を置いた二つの大学の教授会や評議会である問題が議論されても、評決がないのが一般的であった。「それでは、今日の会議はこれまで。」という議長の挨拶で終わるのが通例であった。その後は、会議の報告を受けた教員や、係長などの職員が上意を斟酌しつつ、おもむろに通達をつくり、決裁・施行するのである。労働組合の総会決議でも、○○大会の決議でも、賛成の方は「拍手で…」ということではなかったか。責任の所在を不分明にしながら進んで行くわが国の流れは、何となくわが国の固有のものではないかとさえ思える。
これに対し、西欧民主主義やアメリカ民主主義はそうではない。例えば、挙手によって、または、投票によって決定する。明治以降のわが国の議会政治もそれを採った。ごく最近の議会選挙も、小選挙区制をとり、白黒をより明確にするということとした。民意の反映という意味では、中選挙区の方が的確であったように思う。さらに、民意だけを重視するのであれば、比例代表制にしてしまえばそれで足りよう。しかし、それらがわが国の風土に適合したものであるかどうかは、大いに議論すべき処である。
人々の気持ちや思いを表現する方法は、その人々が保持する社会の特性に依存する。その「特性」をより的確に反映した手法の開発が必要であると思う。
そして、その際、「他人任せ」という決断の仕方は、個人としても、社会としても「おさらば」にする必要があろう。それができるようにできるかどうか…。それが我々の世代の仕事ではないか…。
2. 民主党政治をめぐる私の論評
(次回に書きたいことです。よって、「つづく」です。)
 

平和な社会の実現のために(その5 時代的制約としての植民地主義

 投稿者:yositune  投稿日:2009年10月19日(月)17時42分17秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 5 時代的制約としての植民地主義)
今回から「戦争促進勢力を支持、支援した」人たちがなぜそうしてしまったのか、そして「平和と民主主義を実現しようとした」人たちの目的がなぜ実現できなかったのか、について考えていこうと思います。
この問題を考えるためには、私は次の二つを、現在とは異なる非常に大きな時代的制約としてみておく必要があると考えています。
1) ヨーロッパ列強の植民地主義を強く意識せざるを得ない客観情勢にあった。
2) 天皇中心主義の明治憲法が支配していた。
この二つが戦前における最も大きな時代的要素であり、この二つの要素が戦争推進者とその協力者の推進力として働き、逆に平和と民主主義を大事にしようとする人たちにとっては猛烈な抑圧力として働いたと思います。少し詳しく考えてみたいと思います。
1) ヨーロッパ列強の植民地主義を強く意識せざるを得ない客観情勢にあった。
 よく知られているように、1853(嘉永6)年にペリーが黒船でやってきたとき、日本中が大騒ぎになりました。大騒ぎになった理由は、単に怖そうな変な船が来たというだけではなくて、ロシアが南下政策によって日本など東アジアを標的にしていることや、ヨーロッパ列強が軍事力を背景にアジアに勢力を伸ばしつつあることを知っていたからです。アヘン戦争(1840~42)では、ずっと尊敬の対象であった中国がひどい目に合わされていることなども、けっこう庶民に至るまでも知っていたようです。これ以来「尊皇攘夷」だとか「佐幕」だとか「開国」などを叫びながら、さまざまな勢力が入り乱れて明治維新に向かいますが。この間どの勢力にとっても外国の圧力にどう対応するかが最大の課題だったはずです。そして結局明治維新ということでヨーロッパ的近代国家の形を整える道を選んだわけです。
 さて、明治になって富国強兵をめざす新政権に対して、さまざまな立場の人々から多くの不満が噴出します。「自由民権運動」なども興ってきます。ところが興味深いことに、内政については厳しい対立が行われても、対外問題となるとさまざまな勢力も政府も国民もあまり意識の違いはなかったようです。例えば解明派の代表たる福沢諭吉は「脱亜論」(脱亜入欧州論)を発表しますが、その主旨は「ヨーロッパ文明を見習おう」といったきれいごとではなく、「朝鮮や中国といったアジア諸国に対して、大事な隣国という見方を脱して、ヨーロッパ列強と同じ姿勢で(つまり侵略者の姿勢で)臨むべきだ、というものです。
 だから朝鮮の利権をめぐって中国と争った「日清戦争」は国内には反対する勢力はありませんでした。「板垣死すとも、自由は死せず」で有名な板垣退助が総裁であった自由党は、日清戦争大賛成だったといいます。台湾を植民地として奪ったことをみんなが喜び、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で遼東半島を変換することが決まったとき、世論はこぞって強い不満を表明しました。
 「日露戦争」においても、状況はほぼ同じでした。この戦争で日本が得たものは1)樺太の南半分の領土、2)後日(1910、明治43年)韓国併合となる諸権益、 3)ロシアが持っていた満州の一部や鉄道、炭鉱などです。戦後国民が強い不満を表明したのは、他国を侵略したり多くの若者を戦死で失ったりしたことではなく、日清戦争のときは取れた賠償金が取れなかったことです。膨大な戦費をまかなうために税金が2倍ほどに上がり、また外国からの借入金もかさんでいて、国民は賠償金を強く期待していたからです。
 このように日清戦争、日露戦争とも国民のほとんどは、政府が進める帝国主義的侵略戦争に疑問を持たなかったようです。日清戦争時に歌人の与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」を詠みました。日露戦争後の朝鮮併合のときは、石川啄木は朝鮮の地図に墨を塗りながら悲しむ歌を詠みました。だからこういう人も何人もいたはずなのですが、マスコミの流す過剰な勝利の報道、「死んでもラッパを放さなかった」英雄の木口小平の話や、激戦の末に203高地を陥落させる物語などに沸き続ける声にかき消されてしまったのでしょう。
 反戦運動が組織的に登場するのは、ヨーロッパで国際労働者協会(インターナショナル)が結成されてからです。特にマルクス主義者を中心に1889年に結成された「第二インターナショナル」は1914年に第一次世界大戦が勃発するまでの間、「反戦決議」「戦争の混乱を利用してブルジョアジーを打倒する方針」「迫りつつある世界戦争への警告」など反戦活動を起こし、世界に影響を及ぼしました。日本ではこの動きを受けて、幸徳秋水が1901年に「帝国主義」を発表し、日露戦争で「非戦論」を展開しました。また、日露戦争が始まった年である1907年の第二インターのアムステルダム大会で、片山潜とプレハーノフの日露の代表が並んで、日露戦争反対の演説を行いました。しかし、実際に第一次世界大戦が始まってしまうと、各国の社会主義政党はほとんどが民族主義の立場に立って、決議は反故になってしまいました。
 第一次世界大戦は各国に莫大な被害を与えました。そのためにヨーロッパではさまざまな反戦運動が高まることになりました。さらに第一次世界大戦中の1917(大正6年)ロシアの十月社会主義革命が成功しました。これらは世界に強い影響を与えました。中国では「五・四運動」朝鮮の「三・一独立運動」(共に1919年)で日本の侵略に強い抵抗を示しました。1920年には国際連盟が発足しました。( 33年に日本とドイツが脱退する。)日本では例えば、「日本共産党創立」(1922、大正11年)「全国水平社結成」(同年)「日本農民組合結成」(同年)などが挙げられます。労働組合も数多く結成されストライキ等が行われました。文学者等も多くの作品を発表しました。
 しかし、残念ながらこれらの活動は成功せず、さらに大きな帝国主義侵略戦争である第二次大戦に突入していくことになりました。その原因について、日本の場合で見ると、次回に採り上げる予定の「天皇主権の明治憲法」や「治安維持法等の猛烈な弾圧」の問題は見逃せません。しかし世界レベルで見た場合は、もう少し違った角度から検討する必要があるような気がします。
 次回は戦争勢力を励まし、平和勢力の障害となったもう一つの要素である「天皇主権の明治憲法」や「治安維持法等の猛烈な弾圧」の問題について採り上げてみたいと思います。そしてその後で「こうした歴史的事実から何を学ぶべきか」について考えてみたいと思います。
 

訂正

 投稿者:yositune  投稿日:2009年10月14日(水)20時54分11秒
返信・引用
  前回の「4、平和と民主主義の運動」の訂正をします。「3.1マンセー事件」と「米騒動」はロシア革命の影響を受けた事件から除外します。また、「3.1マンセー事件」は「3.1独立運動」とします。  

平和な社会の実現のために(その4 平和と民主主義の動き)

 投稿者:yositune  投稿日:2009年10月11日(日)10時15分37秒
返信・引用
  平和な社会の実現のために(その 4 平和と民主主義の運動)
前回は「戦争促進勢力を支持、支援した」人たちの動きについて述べました。今回はもう一方の「平和と民主主義を実現しようとした」人たちの動きについて述べたいと思います。「平和と民主主義を実現しようとした」人たちもたくさんいたのです。
例えば明治初期からの「自由民権運動」がありました。つまり「人民主権」をめざす運動です。またその一環としての「憲法制定と国会開設を求める運動」がありました。そしてそれに続く「普通選挙実現運動」がありました。これらは前近代的な天皇絶対主義に抗して、西欧的民主社会を実現しようとしたものでした。このような動きは主としてインテリたちが担った運動ですが、一定程度成功しました。政府も日本が近代国家であることを示すために、カタチを整える必要があったのです。もっと庶民レベルでの運動では「ストライキなどの労働運動」が徐々に活発になっていきました。「小作争議などの農民運動」も労働運動に劣らないほど激しく展開されました。国会や選挙に呼応するために、「政党」が結成されました。共産党(最初から非合法)や労農党(最初は合法)も結成されました。「水平社」の運動も見逃すわけにいきません。「婦人団体」も結成されました。「プロレタリア文芸連盟」「労働新聞」「全国無産者芸術連盟」 といった芸術やマスコミの組織も次々と結成されました。もちろん組織だけでなく作品もどんどん作られました。
これらは「大正デモクラシー」と呼ばれる時代や、それに続く1920年(大正9年)から始まって昭和の初期まで続く世界恐慌の時代に特に活発になりました。その中で大正6年(1917年)のロシア革命は強い影響を与えました。例えば、植民地朝鮮では独立をめざす「3.1マンセー事件」(1918、大正7年)「米騒動」(1918、大正7年)「日本共産党創立」(1922、大正11年)「全国水平社結成」(同年)「日本農民組合結成」(同年)などが挙げられます。労働組合も数多く結成されストライキ等が行われました。このように「平和と民主主義を実現しようとした運動」もけっこう活発に展開されたのです。(こうした流れに危機感を持った権力は1925年つまり大正14年に有名な弾圧法である治安維持法を制定。)
 残念ながら、このような動きはその後すべて押しつぶされてしまいます。労働組合も大衆団体もあらゆる組織が戦争協力の「大政翼賛会」に吸収されてしまうのです。このような経過があるからか、戦後になってからは、戦前の「平和と民主主義を実現しようとした運動」はあまり注目されなくなります。しかし、私はけっこう豊かに運動が展開されていたことに注目すべきだと思っています。そしてそのような勇気ある貴重な運動がなぜ成功しなかったのかについて分析し、後の世の我々の参考にすべきだと思っています。
反戦平和をめざした勢力はすべて押しつぶされて、戦争は始まってしまいます。ともかくも、戦争とは「勝つか、負けるか」「殺すか、殺されるか」の二者択一の世界です。民主主義も人権も愛もすべてが無意味になってしまいます。だから勝負は戦争が目の前に来てしまうより前の時期にあるのです。戦後ドイツ国民が「戦争の足音が少しずつ聞こえ始めた頃、不安を感じながらも、まだこの程度なら大丈夫だろう、自分が立ち上がらなくても誰かが何とかしてくれるだろうと考えた。今から考えると、あの時こそ立ち上がるべき時だったのだ」と話し合った通りだと思います。
このような考えから、前回の「一般国民の戦争責任」の議論でも、戦争が始まってからのことは省きました。戦争の中では「南京虐殺」等に見られるように普通の兵士が直接に残虐行為に走っています。もうこの時点では、彼らには「殺すか、殺されるか」という選択肢しか無かったのです。戦争責任とは「戦争をするのか、避けるのか」の選択肢があってこそ、選択肢を持った者に発生するのだと思います。
 では、戦前の人たちは何をすべきだったのか、「平和と民主主義を実現しようとした運動」はなぜ成功しなかったのか。これについては次回に考えてみたいと思います。
 

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